鳥飼酒造

吟香対談

第一回 十文字美信

十文字美信 プロフィール

写真家
1947年
横浜生まれ
1971年
写真家として独立
1974年
ニューヨーク近代美術館で開催された「New Japanese Photography」展に作品「untitled」(首なし)が招待出品される
以後展覧会多数
2004年
多摩美術大学教授に就任
2014年
多摩美術大学教授を定年退職
2014年
鳥飼酒造のための写真、映像を撮り始める
主な受賞歴
1974〜76,78,85,86年 ADC賞
1991年
土門拳賞
2008年
日本写真家協会作家賞
主な出版作品
「蘭の舟」
「KÉNTAUROS」
「澄み透った闇」
「黄金風天人」
「ポケットに仏像vol.1,vol.2」
「日本劇顔」
「十文字美信の仕事と周辺」
「わび」
「ふたたび翳」
「感性のバケモノになりたい」


十文字美信
鳥飼和信
鳥飼蔵人
よろしくお願いします。

出会いについて

—— お互いに初めて会ったときの印象をお聞かせください。 ——

鳥飼
僕は、紹介を受けて、最初に十文字さんのサイトを見て、それから幾つか過去の作品を見て、この方に撮っていただければありがたいとすぐに決めました。私は、田舎の小さな醸造元ですから、これだけの大家がまず会ってくださるのかどうかが心配でしたね。
十文字
鳥飼焼酎というのは、どこかで僕は飲んだことはあったんです。そのときに他の焼酎と違って、香りが独特だなっていう、そういう記憶があった。それは焼酎を飲んだだけで、そこから鳥飼さんの人物とか、鳥飼酒造とか、そこまでは考えがいたってない。だから、最初に話をいただいたとき、どういう方なんだろうなって、ちょっと楽しみっていうか期待感っていうか、まあそういうような気持ちで行ったんです。最初にパッと見たときの印象というのは、私と似てるなあっていうか、雰囲気が似てるなあっていう。
鳥飼
わっははははは…
十文字
それは、お互いに髪が白いとか、年齢が近いとか、そういうこともあるけど、なにかそういうルックスだけじゃなくて、なにかこう佇まいに共通点があるのかな。そんな気持ちで座ったというのが言葉を交わす前の第一印象。
鳥飼
じつは、僕もはっきり憶えているんですよ。何かの本に〈自分は強面の印象というふうに言われている〉と書かれていてなんでかなと思っていて…
カメラ小僧のように、ちっちゃな昔のクラシックライカを首から下げられていました。それで限られた時間、お忙しいと思うから、礼儀を欠かないようにipadを見て頂きながらお話ししたんです。
お会いして終わりの方で具体的に、これは静止画とムービーと、それからホームページ、それから音楽、印刷と6名の名前を挙げられたんです。僕がどうしようって15年悩んでいて、どう伝えるか、自分のやっていることを嘘もなくですよ。この方ならきちんと伝えてくださるだろうという。ほんとに受けていただけたら、僕はラッキーだなと思いました。
十文字
僕は、その話を聞きながら、今まで広告をしてきていないっていうのを聞いて、ちょっと驚いた。今ここで僕に話が来たっていうのは、要するに従来の広告ではないことが考えられないんですか?っていう、物を売ったり、自分の会社の理念とか、そういうものを伝えるときに、従来の広告のやり方ではなくて他にないんでしょうか?そのことを言われてるんだな、私はそのことを考えなきゃいけないんだなっていうのがいちばん最初に感じたよね。
鳥飼
僕が草津川や森を復活させたこともみんなわからないんですよ。悪いことじゃないからみんな賛同の意は示してくれますけれど、なんで?っていう、ツボがみんなわかってくれない。それは酒を造ったり生きていくことのひとつでもあるしっていう、そこがわかってくれない。十文字さんは、余計な説明は要らなかったですね。今もそう思っています。

五感の奥行き

—— 最初のときから、甘みとか香りとか、味覚の話が出ていましたね? ——

鳥飼
十文字さんのいわゆる視覚芸術と呼ばれる、視るというのはどういうことだっていう。そのことと味わうっていうことが同じ人間の中で起きることなわけですから。
十文字
自分はまったく趣味から珈琲の焙煎をはじめたんですが、趣味の追求というのがあって、そこに踏み込んでいくっていうのは趣味でもやっぱりあるんですよ。だから、いってみれば同じ嗜好品だし、どこかに共通点はあったのかもしれないですね。
そこで苦みとか甘みとか口当たりとか香りの抜け方とか、そういうことについて、自分なりの感想は持ってたから、鳥飼さんの話の少なくとも何百分の一かは体験として理解できたっていうか。焙煎をやってなければ、話が通じないこともあったかもしれないですね。
鳥飼
僕は、十文字さんと何回も酒を飲むわけ、そうすると、僕が感じているところをほぼね、同じように感じてくださる。酒に感動するときのツボ、そういうのは非常に同じ波長です。それっていうのは、僕は写真はあまりわからないんだけど、なんていうのかね。やっぱり感性の世界という意味では味覚も視ることもどこかひとつのテーブルなんじゃないかと思いますね。
十文字
そうですね。だから、味とか香りとかでいうと、爽やかとか、すがすがしいとか、気持ちがいいとか、軽やかとか、そういうものは案外できると思うんですよ。だけど、そうじゃなくて、もう少し動物的で、野生的で、ぎりぎりのところから、もうちょっと半歩踏みだすと気持ちが悪いとか、なんか濃すぎるとか、いやらしいとか、そういうぎりぎりの香りや味に興味ありますよね。
鳥飼
原始的なっていうか、本能的なっていうか。例えば、先程の爽やかとか、そういうのはある意味カンファタビリティとか快適さ、これはねトイレの芳香剤まで、みんなわかりやすいんです。
十文字
そうそう…
鳥飼
ところがそれだけで我々が生きていくこととか、食べ物とか、っていうのは出来上がっているかというとそうじゃないですよね。だから、いくつかの苦みも渋みも含めたところで全体のバランスによって、味わいというのは立体的に奥行きっていうのができてくるわけだから。香水もそうですよね。嫌なものが入らないと奥行きが出てこない。そういうのは、僕らが酒を造っていくときに考えなきゃいけないと思ってやってますけれどね。
十文字
すべての人に合わせようとすると、やっぱり違うような気がしますね。そうするとどうしても無難な方向にいかざるを得ないから。やっぱり自分の理想があって、理想に向かってやらないと、後ろをふりかえって、消費者なら消費者に、大衆なら大衆に向かってすべての人に合うように自分は考えるんだっていうと、やっぱりなかなか到達できないと思いますね。いつ見てもおもしろいっていうのは、最初はちょっと強烈すぎるかもしれないとか、どぎつすぎるかもしれないとか、一瞬そう思うかもしれないことが多い。よくよく見たら味があるとか深みがあるとかっていうのはそういうことにすごくつながっていくと思うんだけど。で、僕は鳥飼の焼酎っていうのは、そういうところに到達点っていうかそういうものを鳥飼さん自身が目指してる気がしたの。話をしながらね。ああ、それだったら、なんとかできるかも知れないなあって、自分が一緒にタッグを組んでやっていけるかもしれないと。未知の領域だからね、鳥飼さんにとっても未知の領域を追求しているだろうし、僕にとってもそうだから。

失われしもの

—— おふたりの心の中に、日本とか、日本人とか、そういうものが伏線にあるんじゃないでしょうか。 ——

十文字
ああ、そうだねえ。
鳥飼
すでに我々は日本に生まれちゃっているわけだよ。ある意味じゃ選んだ覚えがないっていうかね。だけど、その、少なくとも、もうそこに立っている自分ていうのを考えるじゃないですか。そうすると酒の造り方だってごまんとあるんですよ。だけどその中で選んでやったわけじゃない。それはこの国の中に自然にあって、伝統としてあって、法律によっても定められていて、いってみればいろんな鎧をがちがちに着せられて、その中で自由に動けって言われているようなものなんです。そうすると自分を縛っているものはなんだろうっていうことも同時に考える。それは他人に対するものではなくて、オリジナリティとか、アイデンティティとかそういう言葉をよく聞かれるけれど、そのものなんだろうなあっていうのはありますよねえ。なんとかして、これを振り払いたいっていう想いも同時に何度も思いますよ。
十文字
最初に会って草津の話を聞いたときに、やっぱり私自身もそうなんだけど、失われたものっていうか、それに対する想いの深さ。自分の子供時代のことを考えてももうすでに失われたものがたくさんあった。それこそ近代に失くしてしまったもの、失くしたものの中に大事なものがたくさんあるんじゃないの?っていうのが、基本的に僕の中にあるよね。それもなにか草津の話を聞いてるときに、自分の中の共通点と一致するところがあったっていうか…

—— それを未来にって… ——

十文字
そこからまたなにか感じていくものがあるんじゃないですか?っていう。会って話をしながら心の中で密かに同志っていうかね、同じような志を持ってる人っていうか、そういうのをストレートに感じたっていうのが、僕の中で珍しい体験だったよね。まったく分野が違うにも拘らず。
鳥飼
僕は旧い家に生まれたから、若い頃は旧さが嫌で嫌でしょうがなかった。ただ、100年以上持っている蔵と道具を見ると、つまんない板きれみたいな道具が100年保ったのは、道具そのものが遺ってきたというより、道具を扱う人間の心遣いみたいなものが遺させてきた。そういうのはつくづくね、旧い蔵の中で旧い道具で新しい道具が欲しいと思いながら、どうしようもない中で働きながら、感じる経験というのがたくさんありました。ただやっぱりどうしようもないから200年も300年も経った土蔵をつぶしたりしたんですけど、そのときはやっぱり心痛かったですね。だけどね、使えないんですよ、今は。それを続けられない。少なくとも僕の経営の力とか財力では続けられなかった。今は仮に遺してたって、しょぼくれた記念館として遺しておくぐらいで、もうちょっと考えたら日常の中で家とかそういうような使い方もできたんでしょうけれど、少なくとも生産設備としては使えない。だけど、そういう痛い想いも、身の回りで滅んでいった自然への痛みもどこか共通するものがあるんですよ。それが失くなっちゃったというのがね、やっぱり。ああ、あの川が遺っていたら今頃、孫と一緒に同じように俺が子供の頃と同じような経験を共有できたんじゃないかなあって。でも、おそらく江戸時代まで、それはずっとあり続けたと思うんですよ。そうするとね、世代の断絶といっても、そこんとこだけは断絶しない、きっと。川で怖い目にあったり、海で怖い目にあったり、水を飲んだりする思いは共有化できる。そういう一点は、けっこう大きい一点だったんじゃなかったのかなあと近頃思いますね。かわいそうですよ、今の子供たちが。日常の中でこれだけ自然が失われてね、これだけ管理されてね、まともに生きていけと俺はよう言わんね。
十文字
さっきの話に戻るかもしれないけれど、印象っていうことでいうと、話をしてて時折見せる笑顔だよね。その笑顔っていうのは、私は普段、人を撮るチャンスが非常に多いんで、自然にこう自分の中で無意識にも観察するっていうか、観察するっていうと失礼に聞こえるかも知れないけれど、やっぱり自分が無意識にその人の顔を読み取るっていうのはひとつの習性になっているわけです。よく日本人は意味もなく悲しいときでもなにか笑っているとか、よくいうじゃない。でもね、そのとき現れる笑顔っていうのは微笑みなんですよ。微笑みっていうのは、やっぱり悲しいとか嬉しいとかそういうものを超えたところから湧き出るものがあるのね。それはなにかっていうと、そのときそのときの表情じゃないんだよね。表情のもっと奥にあるもので底から湧き出てくる現れなんですよ。それが感情の表現より、もうちょっと深いところから現れてくる。自然にこぼれてくるような笑みっていうか、それは悲しいときでも出てくるんですよ。で、そういう深いところから湧き出てくる微笑みみたいなものが、鳥飼さんと話をしていて時折見せる笑い顔の中にそういうものを感じて、こういう笑顔はいいなあっていうか。ただ嬉しいから笑ってる、悲しいから怒る、なんかそういうことじゃない、もっともっと深いところから湧き出てくる笑みっていうか。それはねえ、ほんとは誰もが持ってたんじゃないの、と思うよ。血みたいなものっていうか、だって日本のこういう風土で、自然の中にいて、四季と一緒に春夏秋冬の変化と一緒にね、生きてきたわけだから。その中に命があって誕生があって死があって、それは今までもいろんな言葉で言ってきたと思うよ。だけど、なんていうのかな誤解を恐れずにいえば、人の力ではどうすることもできないものっていうか、圧倒的なものっていうか、大きなものっていうか、そういうものは日本人っていうのは誰でもからだの奥に感じてたものなのよ。それは子供であろうが大人であろうがそういうものはちゃんと自然に受け容れてた。そういうものが自然にこう身体の中に入っていたというか、それが日常の生活の中でこぼれるっていうか、こぼれだして出てきたのよ。だから可愛かったのよ。
鳥飼
それこそ、僕のこととはどう関係あるかは別にして、渡辺京二さんが『逝きし世の面影』の中で、幕末期の日本人が外国人の目にどう映ったのかを紹介しています。日本人ていうのはほんとによく笑ってなんて愛らしいんだろうって、そしてそれをいうと日本人はプライドを傷つけられて怒るっていうんだけど、こんな愛らしい笑顔を見たことがないって、外国人が書いているんです。邪気のなかった頃の、あまり疑わない澄んだ世の中の頃の日本人なのかもしれませんね。その笑みっていうのは。
十文字
微笑みは失いたくないもののひとつだよね。やっぱり人間が本来持ってたものっていうか、表面的なものに左右されるんじゃなくて、もう少し深いところからこぼれるものっていうか、そういうものがひとつでもふたつでもあったらいいなと思うよね。

—— そういうようなものと、お酒との関わりというのはどうなんでしょうか? ——

十文字
それは、酒の魅力というのは普段忘れてたそういう瞬間を取り戻しやすい媒体だよね。酒は本性を現すっていうけれどね。まさにそういうことだと思うよ。だからそれも酒の魅力だと思うね。

—— 微笑みがより姿を現すいうことですね? ——

十文字
そうだよ。だから、人によっては洪水みたいにこぼれちゃう人もいるけどさあ。はははは、もう微笑みの大洪水になっちゃうような人もいるかもしれないけど。
鳥飼
人と出会ったときに動物だから、お互いのテリトリーを越えるときの警戒とか、そういうのを解く道具ではあるよね。人と人との瞬間接着剤だなんていってたこともあったけど。

加齢臭の微笑み

鳥飼
話は戻りますけれど、微笑みっていうのはね、僕は十文字さんの撮られる写真の中にもね。それはね、まなざしってあるじゃないですか。子供が愛らしいとか、大事なものを優しく見守るときのまなざしっていうのかな、それは目が笑っているというか、そういうものが十文字さんの中にあるから、それが見えてくるんじゃないですかね。やっぱり優しいまなざしで撮られたものってのは、優しく写ってるんだと思うね。いわゆるソフトな、っていう意味じゃなくて、生命の存在に対するまあ、さまざまな生命っていうのは無常観って言ったらいいのかね。ひとときのそのかたちをとどめることはないんだけど、やっぱりそれに対するまなざしっていうのは、人間のこれまでの、生まれたいろんな感情ってのがあると思うんです。それがやはりそのときの風景を切り取っていくんだろうと思う。酒もそうだけど、先程からいってるけど、ひとつの人間の中で起こる現象としてはね、かけ離れたもんじゃないと思いますけどね。
十文字
あとね、言葉を変えると、さっき僕がいった微笑みというのは、香りに近いよね。その人の微笑みっていうのは、その人の香りに近いんじゃないかと僕は思う。香りのことをいうとね、僕は非常に興味深いことがあって。それはなにかっていうと、ある動物学者がこういう話をしたのよ。加齢臭ってあるじゃない。歳をとって臭ってくるもの、あれはなんだっていうと、天敵に自分を食べてくださいっていうサインだっていうのよ。それを読んだときに、これは凄いと思って、なるほどなって。それが正しいかどうかは動物学者じゃないから僕にはわからないけれど、納得するところがあった。老いっていうのは、やっぱりそういうことだなあっていう、もう餌になるしかないっていうか。この地球の命のサイクルでいうと、もう年老いて生殖機能がね、繁殖機能がなくなったら、どうぞお食べくださいっていう、もう身を投げ出すっていうかさあ。もう投げ出してんだよ。俺は(笑)
鳥飼
生物学者で、雄は子供を生んだらもういらないんだ、そういう存在なんだと言っている人もいる。
十文字
でも、加齢臭の微笑みって凄いね。考えてみたいね。
鳥飼
だけどね、俺はやっぱりね、微笑みっていうと、弥勒菩薩のね、ああいう生命のいとおしみっていうか、消えていくものも含めてだよ、その生命がいろんなことを社会で起こしてさ、殺したり殺されたり、そういったことも生命のすべての存在に対する現象に対して、その微笑んでいるというような感じだなあれは。慈愛っていうか、仏の慈愛だからね。

微笑むような言葉で

十文字
吟香鳥飼を説明するのにフルーティの他に違う言葉ないの?あるような気がする。吟香というのは僕は良いと思っている。音も良いし、文字面も良いし。その隣にフルーティと言われるとなんか違うなあっていう。
鳥飼
吟香は、蔵の男達が、吟醸香を縮めて使っていた言葉です。まあ、醸しだした香りだからね、花や果物に例えるのは一般的だけどね。
十文字
それも確かにひとつだよね。華やかだし。間違ってはいないと思うけど。
でも、さっき鳥飼さんがおっしゃったように言い古されてるし、なんかピタッとこないけどね。どこにでも使われてる言葉だから。
鳥飼
まあ、ボキャブラリーの貧困さを表しているね。
鳥飼
ワインに関して、これまでいろんな文学者が使った表現があるんだけれど、そういうのがもっと広がっていくといいよね。

—— 鳥飼焼酎の香りは、鳥飼さんの人格が立ちのぼってきているのではないですか? ——

鳥飼
いろんな人が来て、本を書けだの、お前が表に出ろって言う。俺が有名になってもね、まあそういうふうに戦略の中で、創った人が出てきて、スターになって、醸造界でもなんでもそうなんだけど、そういう展開をしたものっていっぱいあるじゃないか。あの、鳥飼がまたなんかやってるって…
十文字
でも、ひとつの責任とか、ひとつの自信とか、ひとつの誇りとか、そういうことが見えやすいのよ。それも僕はね、必要なことだと思うよ。ある程度ね。だから鳥飼っていうと、特に吟香鳥飼っていうのは、鳥飼和信のやっぱり人格から生まれて出てきたものなのよ。だって、鳥飼さんを見てフルーティって言われたって、嬉しくないと思うよ。もうちょっと、他の言葉ないの。フルーティに見えないよなあ!そりゃあ一部にはあるだろうけど。
鳥飼
ドリアンって言われても嫌だけどね。
十文字
そういうふうに思うと、もうちょっとピターッと来る言葉があってもいい。だから鳥飼さん自身をイメージしながら考えたらいいんじゃないの?
蔵人
味が、以前は香りが強く出て、味自体は鋭い感じだったんだと思うんですよ。3〜4年間ぐらいの記憶では、それだと鮮烈でビビッドな感じだったんですけど、今はちょっと香りが抑えられて、個人的にはちょっとした臭さが入ってきた気がするんですけど、もともと持っていた香りは残っていて、香りはさりげない上品な感じがあって、味はじんわりとしていて、あったかくて優しい感じになってきたかなと。
鳥飼
お前、充分、焼酎屋になれるよ、俺は、お前がしゃべってるとき、麹の顔がぱっぱっと出てくるんだよ。それはなんでかっていうと、どこを変えたからそうなるんだっていうのが、まず全部出てきちゃうんですね。それは俺の仕事だから。でも、じつは、それをまたもう一回ひねろうかって、昨日、専務とこういう道具を探してこいといってるところなんだよ。それは、どっちにもある幅でね、揺らしてみたくなるところなんだよ、味と香りの幅を。とにかく毎年、同じスタイルで造ったことないから俺は。
十文字
それからとても大事なことは、酒を飲む気持ちになったら、不快にはなりたくないのよ。気持ち良くなりたい。だからそこだよね。飲んで良かった、この香りを聞いて良かったっていう、良かった感は絶対条件だからね。どういうふうに跳ぼうとさ、どういうふうに行こうとさ、そりゃ、どこまで行っても、良かったの想いがないとね。
鳥飼
本場から送られてきたマオタイ酎の中でもずっと優れているもの、それを俺は持っているんだよ。今では100万円くらいすると思う。一昨日さあ、それをね持ってって、バーで飲んだんだよ。そうしたらバーのママが「あの後飲んだら、なんか身悶えしちゃった。」っていうんだよね。ああ、そういう酒ができたらなあって思うんだよ。ほんとにマオタイ酎っていうのは、その土地でしかできないわけだから。まあ、いってみれば大地から生まれる酒なんですよ。やっぱり、それくらい飲んだ人の後にまで、あるインパクトというか、凄い酒なんですよ。
十文字
厚みがね、一筋縄でいかないって感じがしたもの。これをひとことでとか、なかなかいいにくい複雑なものが感じられるんだ。うん。
鳥飼
日本人は、うえ〜臭いで終わっちゃうんです。だから俺は一緒に飲もうと思わない。それは仕方がないね、素直に入っていく人と途中で止めちゃう人といるんだから。それがわかったら、すっごい酒なのよ。
十文字
やっぱり至福っていうのに近いよ。至福のひとときっていうか、まず香りを聞いて口の中に含んで、ノドを通過して、胃の中に落ちてみたいな、その一連がそれぞれ段階的に全部、違った香りと味がして、それらを飲み終わってしばらく経ったときの自分の感じがやっぱりこう至福感に近い。それは、アルコール度の低いものでは感じられないね、あの至福感っていうのは。ある程度の濃度がないと、ある程度の強さがないと、ああいう感じにまでなかなか至らない。
鳥飼
まあ、あれの水割りはとんでもないけど飲めない。マオタイ村に行ったときトップのジ先生にお伝えした言葉が、月明かりに向うから打ち寄せてくる白波が幾重にも幾重にも押し寄せてくるような感動と…
それは月夜の白波に例えて言ったんだけど、ほんとにそのときそういうふうに思ったもの。幾つもの感動が後から後から押し寄せてくる。そういう酒。

—— そういうときに、その酒を造っている人とか、自然とかを想像されるものですか? ——

十文字
飲んでいる自分自身の感じだよね。もっと酔うというか、酩酊してるわけだからさあ、じっくり酒の中に入っていく自分っていうか、
鳥飼
そういう意味では、アルコールで酔ったという意味じゃないんだよね。
十文字
さっき言った至福っていうのは、酒を飲んで日常的なひとときから一瞬でも飛ぶわけでしょう。その瞬間はふっと、それの喜びでしょ。酒を飲んでますます日常的になるんじゃ酒を飲みたくないもんね。
鳥飼
だから、造り酒屋っていうのは面白いなあって思う。僕はマオタイ酎をそのまま造ろうと思っているわけじゃない。もうひとつはロマネコンティのフィーヌっていうのがあるんだけど、そのときに得た感動を俺も起こさせたいと、こう、野心が出てくる。じゃあ今持っているテクニックでなにが出来るのかっていう、そこがいつも壁にぶちあたっているわけね。だから、やりつづける。十文字さんもこれだけ考えていれば、身体さえガタがこなければ、あと50年くらいは仕事をしたいと思うはずだよ。でも、そうはいかないから面白いんだ。そういったものがちょっとでも手に入れば、俺が思った以上にね、人は尊敬してくれる。おかしいねえ。それが、創る喜びなのかなあ。これで、砂漠の誰もいないところでひとりぼっちで、もの創ってさあ、泣いたり笑ったりはできないよ。誰かわかってくれる人がいるという前提でやるわけだから。だから俺のハートの中にいる最大の客はバッカスだって言ったじゃない。微笑んでくれるまでやってみたい。

センスとサイエンス

十文字
鳥飼さんに改めて、ひとつ聞いてみたいことがあるとすれば、ヒントっていうか、そういうものをどういうところから得ているんだろう。例えば、仮に新しい酒をイメージするとするじゃないですか、新しい酒の方向性のヒントっていうのはなんなのかなっていうのが非常に興味ありますよね。
鳥飼
やっぱり、あの、片方で経営をやっていかないといけない。先程いったように、物には価格があって、それからボリューム、どれだけの量でということによって経営体として維持存続していく。そういうときに、僕が気をつけておくことは、いろんなブームがあっても一個の会社で起きているわけじゃないんです。それは社会の現象としてそこに起きていく。そういう意味ではトレンドっていう言葉、あるいは潮流っていうんだよね。それにのれるか、のらないかっていうのは、これまで僕も経営者として見ていると、10年早くやっちゃって全然箸にも棒にもかかんなかったやつが、10年後、同じようなことをやった他者が爆発したりするわけですね。それは、本人が起こしたんじゃなくて、時代がまさにそれを求めたわけでしょ。それをやったからといって確実に計算したようにできるかっていうと、そうは思わない。でも僕は今まで、この次はこれが来るよというのは外したことがない。それは頭の中のイメージなんですけれど、例えば不況のときだったら、みんなゆっくり歩くようになるだろうとかね。好況のときは足早にわりと刺激的なものを求めるようになるだろうとかね。それは自転車とスポーツカーで映る風景の違いぐらいあるだろうとかね。そういう自分の中の幾つかの隠喩っていうか、そういうもので考えるってことはあるんです。それは社会現象に対する関心がないと、その次の味を造れっていったときにできないと思う。で、この次に来るだろうっていうのは、なんとなくあるんですよ。こういうスタイルの酒が喜ぶだろうというのが。それは今でもありますね。
十文字
それはずーっと吟香鳥飼が生まれてから現在もそしてこれからもそれでいくわけじゃないですか。その酒自身は、毎年毎年、変わるだろうけれど、毎年、変えていくのか、それとも変わっちゃうものなのか。
鳥飼
それは技術的に変えていかないといけないわけですね。
十文字
その変えていくときの指針というか、方向性というか、それはどこで得るんですか?
鳥飼
それは、ごまんと試作するというか、発酵試験をやって体感していくわけですね。だいたいこうやっていると、こうなったらこういう味わいにいくだろうっていうのの関係が見えてくるんですね。
十文字
やっぱり、非常に科学的ですね。
鳥飼
そういう意味では、センスとサイエンスですよね。
十文字
そうだね。
鳥飼
世界中みんなそうだと思う、発酵に関わっている連中は。おそらくコーヒーの世界もそうだろうし、特に香水の世界もそうですね。このあいだびっくりしたのは、これまでの香水は一定のこれがこの香りであるというのをなんとか時の中に押しとどめようとしたんです。そうはならないんだよ。香りというのは飛んでいくわけだから。そうすると、飛んでいく香りと、残っていく香りとふたつあるよね。移り香と残り香みたいなもの。これが4段階か5段階ぐらいに変わっていくんだよ。変わっていいんだよっていう。
概念というのは時代によって変化していくわけだから。若者論ではないけれど、青年よ大志を抱けの大志っていったって、100年前の大志と、今の大志では中味を見てみないとわかんないよね。香りひとつそうやってさ。香水だってね、今、時間差をつくっていく香水が出てきてんだよ。俺はわりとそういうのは勘が早い。だからさっき、嗅いだ香りと、今、嗅いだ香りと、また何十分後に嗅いだ香りが違うでしょ、それでOKですよっていう変化して当たり前じゃないっていうのは、今までの香水屋の発想の中になかった発想だと思うよ。
十文字
自分のことをいうとね。いちばん最初に写真家になろうと思ったとき、もともと僕は写真が好きとか写真家になろうと思っていたわけじゃないから、まあいっていれば偶然志したわけだよ。
で、その最初に自分が思ったことはなにかっていうと、写真っていうのは当然ながら見えるものしか写らない。見えないものは写らないんだよ。そうすると、自分がもし一生ね。まだその頃は二十歳ぐらいだったから、自分がこの先50年間、60年間、ずっとこの仕事を自分の一生の仕事としてやるんだったら、写真が見えるものしか写らないんだったら、それなら見えないものをどうするのっていう。写真は見えないものをどうしたらいいのかっていうことの試行錯誤、格闘。どういう言葉であれ、常にそれを伴侶にしながら、たとえ、テーマが変わろうと。ずーっとそれを追いかけながらやるんだろうなあというのが、僕のいちばん最初だったわけ。だから人を撮ったときにフレームから顔を外したんですよ。つまり、顔がないポートレートを撮った。いちばん最初に写真てものを考えたときに、そこに在って見えるものを通じて、見えないものをどうイメージするかが問題だと思った。写真はそこに存在するものしか写らないけど、作家が見えるものだけで表現しようとすると、作品の鑑賞者の自由を束縛すると思った。他の芸術と違って、写真は作者の表現世界だけで完成してはいけないと思ったんだ。現実の記録がベースにあるのが写真だから、作者の表現世界より、鑑賞者の自由の方が重要だと思った。
鳥飼
十文字さんともそういう話をいくつかやってきて、けっこう観念哲学的だったりとか、そのときどうやって撮ったのかって聞いたんだけど。例えば、凱旋門の旗がたなびきながらだよ、凱旋門の裏の装飾が写されている写真。たなびきながらというのは、シャッタースピードを縮めないと止まんないわけだよ。なおかつ被写界深度を深くとるとかさあ、だけど近場と遠場をだよ、こういうふうに撮るのはなんなんだよって思う。それで、十文字さんに、これこれこういうふうに写ってんだけどって聞いたら、パリからだよ、くわしくこれは焦点距離がとか、光がこんなんでとか、テクニックを書いてくるわけですよ。俺は素人として、いいとこ気がついただろうっていうのをね、ちょっと誇りたかったからこの写真は、って言っただけなのに。そうするとねダビンチのことを思いだしたんだよ。ダビンチが他の絵描きに対して、少女のほほを描くのにマゼンタとなにかが何対何であると少女のほほになるといったという。そういう説明だねって返信したら、最後に、老いみたいなもんですけどって、いわゆる経験によって得られるものだっていう。だけどそこまではやっぱりちゃんと説明可能だっていう。ここはサイエンスですよ。
十文字
そういうところがね、お互いにすごく似ているんですよ。これはもうねえ、瞬間的に技術的なことが頭にあるんですよ。なにを見ても、あっこれは何ミリのレンズで、どこから撮って、どういうライトでっていうのは、もう瞬間的にね、ぱっと感じちゃうわけ。そういうことがベースにありますね。
鳥飼
携帯で撮られた凱旋門の写真が、なんでこういうふうに撮れるんだって質問したら。きっちり返ってきてさ、最後は老いですだって。あははははは(笑)
十文字
しかし、鳥飼さんって、なんていうの、すれ違っただけでもよく見てるよね。口に出さないけど、観察が凄く鋭い。すっと入るんだよね。
鳥飼
たくさん失敗して身体で憶えるしかないと思う。
十文字
やっぱりサイエンスだけでもだめだし、もちろんセンスだけでもだめだし。

—— やはりセンスとサイエンスの両方が大切なのですね。本日はどうもありがとうございました。 ——

2015年初夏
人吉にて


後記 「私達は母なる川と一体でした」

十文字美信さんは、声をあげて笑う。とっても嬉しそうに。
芸術論であったり、香りや味覚の話であったり、その知識の幅や深さや
経験もさることながら、五感の運動神経というか、器官の反応というか、
その場その場で肉体の感じ取った感覚をつかまえて
すばやく言葉に置き換えていく、その正確さと速さに驚かされる。
陸上競技のスプリンターが走っている姿を見て鳥肌が立つように
目の前で器官がビュンビュンと動いているのが伝わってくる。
周囲の人の感覚を刺激して、引力のように引っ張っていくようだ。
鳥飼の問いに、十文字さんは一語一語を精密に定義していく。
話題が酒や香りに移れば、十文字さんが問い、鳥飼が実験に基づいた
確証を伝えていく。攻守が何度も逆転しつつ言葉を酌み交わしながら、
対談のときは過ぎていった。